2010年10月14日木曜日

あの戦争を語ろう

 【from Editor】

 梅雨明けと同時に終戦企画「引き揚げ」の取材が始まった。戦争体験者の大半は80代から90代。猛暑にもかかわらず、ネクタイや襟付きシャツ姿で到着を待ちわびてくれていた。耳が遠いため、手助けの家族が同席することが多く、周囲の視線を感じながらノートを開き、質問を始める。

 地図帳で地名を確認しながら「8月15日は新京でしたか」と聞くと、すぐさま娘さんが「おじいちゃん、終戦は新京やったん」と耳元で怒鳴ってくれる。

 当初、予想していたよりも「終戦の日」の記憶は薄く、「敗戦」はうわさでなんとなく耳にしたという程度が多かった。半面、命をさらした戦闘場面の記憶ははっきりしている。「伏せていた体の横を機銃掃射のチュンチュンチュンって。脇で戦友が血まみれで、これで死ぬと思いましたよ。どんどん仲間が死んで」。血のにおいが漂うようなシーンに映画「プライベート?ライアン」の映像が思い浮かぶ。声がかすれ、鼻水をすする音が混じる。「自分だけ生き残って」。しゃくり上げるように言った。返す言葉もなく、ただただうなずいた。

 「そんなに大変な思いをして帰ってきたんだから、よかったんだよ。おじいちゃんはよかったんだよ」。娘さんも涙声になっている。「こんな話を聞いたことがなかったんですよ。もっと早く話してくれればよかったのに」。当時のことは理解してもらえないだろうという理由で話したことがなかったという。

 戦後65年。戦争体験者の残りの人生は見えてくる。自らの戦争を語るべきじゃないだろうか。祖父は父はどういう心境で戦い、どういう体験をしたのか。家族も問いかけるべきじゃないだろうか。戦争はどこの平凡な家庭にも影響を及ぼした歴史である。一つの歴史を共有することは家族のきずなを強める。今回の取材で確信した。

 もう一つ返す言葉がなくなったことがあった。「総攻撃の前日、戦友の中山と最後の荷物整理をしながら、次は靖国神社で会おうと誓い合ったんですよ。着替えなんて必要ありませんから。翌日、中山は敵弾の破片を受け、戦死しました。だから東京に行くと必ず靖国に参拝しますよ。約束ですから。でも政府の人はなんで参拝しないんですか。どうしてですか、どうしてですか」。あまりの重い言葉に返答のしようもなかった。民主党はこの答えを用意しているならば、教えていただきたい。(社会部編集委員 将口泰浩)

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引用元:プリウスオンライン(Prius online) 総合情報サイト

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